仲人の素質

11月18日の記事「お見合いの廃れる日」は少々ペシミストに見えたと思いますが、見かけに騙されてはいけません。お見合いには良い点があると信じている私が何処かにいます。お見合いを持ちかけられたことも無いし、自分が対象になるのは根本的に嫌いですが、人を紹介したり、知り合わせたりするのが好きです。自分には一種の仲人の素質があると自覚する機会が何度かありました。お節介焼きなのか分りません。特別に余計な手出しをする訳でもないからです。ただ単に頭の中で、「この人のこの面はあの人の性格に合いそうだ」と思うだけです。そんな思いに導かれて、ひょんな機会に二人が出会うようなきっかけを作るのが上手いと自負しているだけです。

具体的に出会う機会を作ることもあれば、ちょっとした褒め言葉でその人の隠れた能力と魅力を明らかにし、相手に知らせるだけの時もあります。結婚とか異性間の付き合いに限らないのも特徴のひとつです。この二人なら最高のコンビだと思えたら、両方に相手の良い所を説明し、力を合わせて舞い上がれるように助言したくなります。その二人の間に強い関係が生まれることにより、私がその二人と優先的に保っていたはずの関係に変化が生じることもあり得ます。普通なら嫉妬に変わる恐れもあるのですが、何故か私は独占するのが嫌いです。生涯「やきもちを焼かない」を一番の目的にしてきたような気がします。誰かが私の傍にいて不幸であると感じるより、その人がより幸福に見えるほうが嬉しいです。

そのような習性に従って、友人の息子に白羽の矢を立てていました。誰のためかと言うと、勿論イザドラです。目的は彼女が歌う時に伴奏するピアニストを見つけることですが、そのジョリス君がモンペリエに引っ越す可能性があったので、イザドラが借りている大きなアパ-トをシェアする相手にもなり得ると考えていました。スポーツ・コーチになるための研修に志願し、今週の初めからテストを受けに来ていたジョリス君にレコードを聴かせたら、耳が特別良いのです。初めて聴く曲なのに、即座にピアノで初めのフレーズを再現できるところを見ると、適役と言えそうです。この研修に参加できるなら最高と思い、翌日の結果発表を彼と同じくらい楽しみにしていたのですが、生憎にも採用されませんでした。腹癒せに、「フリーメーソンしか採らないのかもね」と悪口を叩きました。

これが成功していたら本当に一挙両得だったのに、と今でも悔しがっています。そんな思惑を抱いていたことをイザドラに告げたら、彼女も残念がっていました。でも、この日に蒔いた種が何時か発芽しないと限りません。アルザスの実家に帰宅したジョリス君がモンペリエのライフ・スタイルに憧れて戻ってくるといいな、となんとなく心待ちしています。

お見合いが廃れる日

「彼氏にDVされています」なんてコメントが人を釣る餌になる、と思うほど甘い人がいる世の中なのでしょうか。家出娘云々も多いです。それとも人格を無視するような虐待および自虐行為が既に習慣となっているほど悲しい世の中に住んでいるのか。頻繁に到着するコメントに目を通しながら、今の世の中どうなっているのと自問する毎日です。

前者の場合、それがお気に入りの手法であるなら、人騒がせな行動に走らないでと助言します。後者の場合なら、ウルサイ!シャラクサイ!と活を入れるしかありません。一般的な思考レベルを上げるためには、底辺に澱む腐敗した汚いものを取り去るしかありませんが、言うは容易く、行なうは想像を絶するものです。あまりに低すぎる底辺は泥の中にドップリ浸かっています。掃除する手にも躊躇いが出ます。穢れが自分の体にも付き纏ってきそうな。。。不快指数鰻上りです。暴言を吐きたくなりますが、怒るのも意味無いです。

つい最近マスコミの注目を浴びた、34歳の結婚詐欺を働いた女性の話ですが、悲しくなります。それほど簡単に女の手管に屈するほど男性は愛に飢えているのでしょうか。お母さん、お姉さん、妹たち、友達、かつての恋人たち、何か責任を感じませんか。それほど男は愛情に飢えているのです。このような言い方をすると男の味方になっているように見えますが、そんなことはありません。暴行されたりバラバラに切り刻まれた死体になって発見されるのは女性が主です。暖かいコンタクトを求めて迷った哀れな子羊の姿が見えます。男であれ女であれ、共通しているのは深い孤独感です。

ネットで相手を見つけるしかないと思い込む人がいるということ自体、重大問題です。お見合いが最高なんて全く思っていませんが、人の性格と状況によっては、そのほうが数百倍も無難ですね。死なないですみます。しかしながら、お見合いの申し込みを受けられること自体が、今では大変な贅沢になっているような気がします。仲介役になってくれていた、地域社会の人間関係そのものが弱体化し、稀になっているからでしょう。それに加えて経済的自立の難しさも軽視できない要素です。終身雇用制度の崩壊は、結婚の誓いまで明日のないものにしたのでしょうか。

ラーメン・ガール

ウェブの朝日新聞で、この映画の紹介記事を読んでから、ずっと興味を持っていました。ユニークで面白い企画なので、授業のネタにすることにし、コピーを保存。何時かフィルムを見て、出来上がりを吟味しなければと思っていたら、記事を勉強させる相手である日本語の生徒がDVDを貸してくれました。テキストは来週から一緒に解読するので良いタイミングですが、正に背負う子に教えられるような気になります。勉強家のノノ君らしい反応です。

最初の感想はと言うと、「ロスト・イン・トランスレーション」が直に念頭に浮かびました。アメリカ人が見た日本ですから、共通性があって当然と言えば当然ですが、同じテーマがライト・モチーフとして行き交います。コミュニケーションを言葉で打ち立てることの難しさ、儚さ、不十分さ。雑踏の賑わいの中で擦れ違う人々に共通する孤独。現代社会の疎外とか言った大袈裟な議論を引っぱり出す必要ありません。もっと単純な次元でもって話が通じていないのですから、高尚なレベルでの交換などは夢のまた夢に過ぎないと思えそうです。

とは言え、もう少し突っ込んでいくと、別の姿が見えてきます。ロバート・アラン・アッカーマン監督の「ラーメン・ガール」では、ソフィア・コポラが試みなかった日本人の情緒の描写と分析があります。「ロスト・イン・トランスレーション」では誰を見ても同じで、アウトサイダー的な若者たちを除くと、ノッペラボウのお化けみたいな存在として一般日本人が描かれていますが、その中に流れる熱い血と涙、温かい思い遣りは無視されていました。「ラーメン」ではこれに焦点が当てられ、庶民の生活を通じて、職人気質、下町の連帯感などが透かし彫りになります。アビー演じるブリタニー・マーフィも製作に参加したそうです。

翻訳の空しさに関するテーマが似通ってはいるけれど、「ラーメン・ガール」のシナリオはニヒルでなく、希望に溢れています。ビル・マーレイ演じるボブ・ハリスがいい加減な翻訳の渦中に置き去りにされ、「風と共に去る」感じで、同国人との淡い恋心を抱えて帰国するのに反し、アビーは言葉を超えた理解を得るために体当たりしていくというのが根本的な違いです。辞書を使うだけで、言葉を覚える努力さえしていないように見えます。普通の学生なら、1年間の滞在でかなり流暢な日本語を話せるようになるのもいるので、これは一種の決断と看做せるかも知れません。師匠は日本語、アビーは英語で捲くし立てるシーンは意味が深いです。言葉だけでは通じるはずがないものを伝えようとしていると観衆に理解させます。ある分野では、言葉の仲介はほとんど不要なのだ、と言いたい製作者たちの確信に基づいているのでしょう。

「考える葦」の国

マルバツ試験では点が良いけれど、作文する必要のある試験だと結果の悪い生徒が多いのは、今も昔も変わらない話ですが、特にフランスに来ると、その違いをより強く感じます。フランスは、「考える葦」を含む「パンセ(思考録)」を書いたブレーズ・パスカルと、「考える故に我あり」と自覚したデカルトの生地だからです。子供たちは小さい時から自分自身の考えは何か意識するように教育されています。

小さな我が子に向かって「どう思う?」と尋ねる母親の姿に初めは驚きました。しかしながら、高校卒業証書に当たるバカロレア試験では、当然のように哲学の問題が全員に課されます。主題はいくつかあるので選べますが、その中からインスピレーションを得て、自分の意見を論理的に展開させ、結論に至らなければなりません。日本の大学生でさえ出来るかなと思います。

そのような試練をごく普通のこととして受け入れてきた国民性にとって、日本のように自分の意見はひっそりと戸棚にしまい込み、世論に従うという生き方は理解できないものです。大学付属の語学学校に登録すると、プログラムの内容は豊かです。テキスト解読では、一般的な批評文もあれば、科学的研究に関するコメントありで、やはり自分らしい視野と批判する能力が無いと対応して行けません。代りばんこに発表させる先生もいるので、自分の意見を持つということは不可欠になります。一般教養も必要です。地理、歴史、諸科学の浅くても広い知識なしでは、理論を展開させようとしても、骸骨に衣を着せるようなものです。

耳に痛いことを、可愛がっていた教え子に再度言いました。彼女はその後帰国し、某出版社に再雇用され、苦手だったはずの営業部門で働いているそうです。働き蜂的に辞書編纂の作業をしたことのある彼女は、それが自分の適性だと思っていたようですが、1年のフランス生活を終えて、潜在していた営業もできる能力が芽生えたのかなと思っています。考える能力を獲得するのは、何歳になっても遅くないという証拠でしょう。

最後になりましたが、パスカルが「考える葦」を通して言いたかったことは、宗教哲学的説明なしでは理解しにくいことなので少々コメントしておきます。よくバカロレアの試験問題に選ばれます。フランス人がそれをそのように理解し意識しているかどうかは別ですが、私のヴィジョンは以下のようです。

人間は自分が惨めな、とるに足らない存在であると意識できるからこそ偉大なのであり、木との違いはそこにあります。自然界で一番か弱い葦と同じですが、考えることにより全てを超越するのです。自分が死ぬと知っているからこそ、殺す相手よりも、宇宙よりも崇高な存在になります。簡略ですが、このような感じです。何時かまた折を見て掘り下げます。

ユーミン発見

浦島太郎の耳にも、ようやくユーミンの名が囁かれました。涙ぐましい努力の結果です。1973年に飛び出してから空白になっていた、日本芸能界に関する知識を、一夜漬けで獲得するのです。夜空を飛び交う流れ星同様に、現われては消え去る人々も多かったであろうと想像していますが、生き残っているのは、さすがに大物たちです。ユーミンと言われても誰のことか全く分らなかった私ですが、愛は全てを克服する力になります。娘のような存在であるイザドラのためなら努力を惜しみません。芸能界でコンタクトをとる価値のある人を探しながら、偶然ユーミンの存在に気付いたという次第です。と言っても、私の願いが聞き入れられるとは思っていませんが。要するに暗中模索の道中で、ふと目に付いたと言うだけなのです。

初めに私が興味を抱いたのはご主人の松任谷正隆さんに対してでした。それも全く音楽と直接関係のない「どらく」という朝日新聞のコラムを読んでのことでした。レストランに一人で入れないと告白する松任谷さんの話し方が気に入ったからでした。友達になりたい人のカテゴリーに入りそうだなと思いつつ名前を記憶しておいたのですが、仕事が音楽プロデューサーであるということも同時に気付きました。その記憶が、イザドラのためにサーチするようになって、突然浮上したのです。しかしながら、コラムを読んだのはかなり前のことだったので、名前も断片的にしか思い出せず、キーワードを選びながら探しているうちに松任谷由美と正隆に行き当りました。ご本人であるかも定かでないまま、グーグルの検索結果を読み、このお二人が夫妻であると理解したわけです。回りくどい話ですが、竜宮城では日常茶飯事です。

本名が分っただけでユーミンに直接つながる訳ではありません。YouTubeのビデオを見ながら、ユーミンとは競争相手なのかと一瞬思ったりしましたが、やっと愛称なのだと理解するに至りました。女性はお化粧でかなり変わるし、アップされたビデオも長い年月に亘り、古いのもあれば新しいのもありで、当然のためらいだと自分では思っていますが、現地の方には笑い話になりそうです。浦島太郎は玉手箱を開くべきではないですね。でも、アルツハイマー病予防にはなりそうです。時の流れを認識し、自分のいる位置とサバイバル条件を理解するだけで充分。顔の皺は要りません。脳内の襞を増やすだけで満足したいです。

いずれにせよ、これほどアップデートの必要な私がマネージャーの任務を果たせる訳ありません。有能なプロデューサーは、犬も歩けば棒に中るという感じで、巷でぶつかるような相手でないのは言うまでもありません。梨のつぶてを送る持久戦になりそうです。シツコイのは生まれつき。頑張ります。